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戸次道雪 高橋紹運 立花宗茂
筑州三代軍記の翻訳と検証 2021年 までの九州歴史研究会 全部
・九州治乱記 著;友松玄益 (1650年以前成立)
・高橋記 著;高橋家家臣 伊藤源右衛門入道一簑(1651年以降成立・高橋家家臣 50音順名簿付き)
・立花記 著;安東正之進・山崎玄碩(柳河藩 立花家家臣 1696~1702年に成立)
高橋家と立花家による唯一の公式本を翻訳。
また、おまけとして
今まで、まともに検証されなかった大友家最後の当主 大友義統の生涯を一年単位で細かく分析。
おそらく史上初にして未来永劫出ないであろう一冊。
・事業承継をしくじった男 大友宗麟の息子 大友義統
大友宗麟の軍記研究を通して、宗麟についてまわる根拠のないデマなどを分析し一年ごとにまとめた唯一無二の史実での大友宗麟本
・大友宗麟について誤解されている事
宗麟についての悪質なデマをばらまいた江戸時代の軍記者たち
・大友記。大友興廃記などの大友軍記。
・360度カメラによる別府扇山登山写真など。
九州歴史研究会の軍記物 研究成果 全てをデータにしてまとめました。
■友松版 九州治乱記とは?
・おそらく柳川で書かれた『大友記』の補完作品
・元禄12年(1699年)に写本がある江戸時代の軍記物。
・前半は大友記の誤りを一部修正して、未完だった後半を継ぎ足したような作品
・北肥戦誌の別名と名前がかぶったため、知る人ぞ知る資料となった軍記物
・大友記の誤りを一部修正しているものの、龍造寺はお世話になった寺から改名した名字などといういい加減な話も
追加した問題作。
『2月10日に起きた二階崩れの変が「一説では9月2日という説もある」』という、たまに見かける珍説の一部はこの本から生まれていると思われる。
本書は民衆人気の高い高橋紹運と戸次道雪の記述が多く、豊後中部を中心に秀吉の九州征伐までを書ききった豊筑乱記とは違う視点で九州の動乱を書ききっています。
大友家当主の代数は正しく、大内義隆・義長を殺害した人間も間違っていません。(大友記は毛利元就、大友興廃記は陶晴賢が二人とも殺害したことになっている)
ただ『二階崩れの変が起こったのは9月2日(正しくは2月10日)』『龍造寺隆信は元々、上松浦氏でお世話になった寺が龍造寺という名前だったので改名した(嘘)』とか『8月に起こった今山合戦を、真冬に起こった合戦として描写している』という、ヒドいデマも書いてあります。
また元号や年数計算の誤りは当たり前。現実には存在しない弘治5年の出来事も書いてます。
つまり本書は大友記をベースに、宗麟の悪口は残したまま一部誤りを正し、大友記で語られなかった部分を追加で語ることで新しい誤りを製造した本といえるでしょう。
なので大友記、大友興廃記、豊筑乱記と比べてどのように内容が変わったかも考察しています。
はじめに より
本書は元禄12年(1699年)に神足貞直という人物が『武陵(無聊=ひまつぶし)に写した』と巻末に書いた写本を、昭和5(1930)年7月に大分縣史跡研究会が『豊国研究資料』の名称で発行したものを底本に翻訳しました。
作者は友松玄益という人物が編纂したらしく、以下の特徴があります。
■基本部分は大友記の丸写しだが、大内義隆と義長がどちらも毛利に殺されたとする大友記と違い、こちらは殺害者は正確(ただし内容は現在の通説と一部異なる)
■大友義鑑は京都に行って、本来なら足利義輝がついた左馬頭の位に就任した。と記述している。
■大友記は1584年頃で話が終わるが、こちらは1587年の秀吉の九州征伐で終わる。
余談ですが本書は後藤碩田本9巻と豊州雑誌10巻を代表に写本があるそうで、7巻以降の構成が異なるそうです。
今回は9巻の方を採用しています
あとがき より
■最初は「大友記の内容を少しアレンジしただけで、これは受けないだろうなぁ」と思いながら手くせで翻訳していたものの、大友記の誤りが直されていたり、別勢力の間違った逸話を追加しており「これは1640年以降に作成された大友記の検証本ではないか?」と思うようになりました。
どこまで史料が揃っていたのかはわかりませんが、豊筑乱記のように『大友記で書かれていない部分を補って書こう』という本と違い☆九州治乱記は『大友記の内容をなぞりつつ、誤っている部分をさりげなく修正しよう』という内容です。
大友記が別名 九州治乱記と呼ばれるようになったのも、友松版の九州治乱記が大友記の内容と共通する部分が多かったからでしょう。
■ただ、龍造寺家に関する記述はデタラメだらけで佐賀の人間には噴飯ものの内容だったでしょう。
1711年以降に、佐賀の軍記物で『北肥戦誌』という本が出版されています。こちらは佐賀藩祖 鍋島直茂を主人公にした内容ですが、膨大な内容と実際の書状らしきものを長ったらしく掲載した『一見すると史書らしき軍記物』を作ります。
この北肥戦誌も別名を九州治乱記と呼ぶのは「龍造寺・鍋島に関して間違った記述のある本が九州の戦国時代の本のように語られるのはけしからん」という子孫の意図があるような気がします。(鍋島藩は 35万石、大友家は千石の高家、立花家も10万石なので立場的に鍋島藩の方が力がありますし)
■軍記物と言うのは実際に読んでみないと知らない事だらけの魔境の様な存在です。
内容は読みづらいし、書いてる事も史実とは異なります。
ですが、それを読んでいた江戸時代人や明治時代人は、その誤った内容を正とし現代の戦国時代観を形作った可能性があります。宗麟の好色説や九州中の寺社を破壊したという『実際の書状を見れば不可能だと分かる事』すらキリシタン大名のイメージで思考停止し誹謗されてきました。
これらの誤ったイメージが何故生まれ、どう改変されたのか?その土台となる知識を読み解いていくことが、正しい人物像を見だすことに繋がるのではないかと思われます。
ある意味、軍記物の検証作業とは当時の史料との矛盾を見つけ400年を超えて騙され続けた嘘や誤解を暴く推理作業と似ています。
見つけた所で誰からも褒められない、知っていても自己満足で終わる可能性のある作業ですが、このような知的好奇心を満たす充足感を共に感じていただけたら頑張った甲斐があります。
お読み頂き誠にありがとうございました。
■九州治乱記 前書き
作者の友松玄益について
編纂者として書かれた友松玄益は、豊国研究史料P1によると「本書は説明するまでも無く友松玄益翁の編著で」とあるだけで、作者がどのような人物かはわかりません。4年前に大分の先哲史料館やネットで調べた際にも情報がありませんでした。
ですが、2020年にグ―グルで調べるとオークションにて「睡餘録」という本の解説で『久留米藩・藤井懶斎・西沢高正 柳川藩侍医・友松玄益(大友家の家臣だった立花家が治めた福岡県柳川市の藩)』というモノが出ました。
睡餘録は漢文体の随想的随筆で藤井懶斎(1628-1709) という 江戸時代前期の儒者が書いた本ですが友松氏はこの年代の人間だったのでしょう。戸次道雪の養子が治めた『柳川藩の関係者が書いた本』として見ると色々納得できる部
分もあるので、参考のために掲載します。
■本書を出す意義
原本自体は上記の先人が活字化してくれているのですが、活字化しても意味が分からない表現が多くて読めないとい
う問題がありました。
そこで本書では内容理解の一助となるよう文の順序や表現を現代風に変更しています。
つまり、先人が崩し字で読みにくい本を活字化してくれたのに対して本書は原本だと完読が困難となる表現を簡素化
し、「てにおは」の誤りを正した上で地図を添えて、一次史料と見比べて内容の検証を行うという試みです。
特に『豊国研究資料』は「古写本の面影を伝えるべく注意した」と書いてあり、誤字をそのまま写していたり旧字体
を使用しており非常に読みにくい本なので、寄せ手=攻め手。六箇敷=難しい。などの言い回しの修正や『摂関の職
は清和(藤原氏)の他は他の家には至らなかった』などの重文、過剰な文飾を排除しています。
■高橋記とは
・友松版 九州治乱記を下敷きに、高橋紹運の家来だった一族が高橋家の事績を追加補足した軍記。
・記録は殆ど戦火で焼けたため屋山家の史料の引用が多い。
・九州治乱記で書かれた高橋家家臣に、さらに30人ほど名前が増加。(逆に2人削除)
・高橋家とは関係の無い日向合戦や豊前の戦いなどの記述は最小限でカットされ読みやすい。
・あっさり殺された裏切り物の北原鎮久が実は紹運さえもしのぐ権力者だったとか、一度は高橋鑑種に従って豊前小
倉に移った事があった。など他の軍記では知りえない裏話が万歳(事実かは不明です)
あとがきより;
今回の本は1586年に岩屋城で玉砕する高橋紹運が主人公のお話です。
本書は九州治乱記の誤りや記述漏れを追記し、当時の大名家に配慮して悪口に関する部分を削った内容の本でした。
最後の言葉のように内容の主体は高橋家であり、立花家や大友家の話は必要な部分以外は省略されています。
逆に立花家の家臣は名前が大量に記録され400人近くの個人名が書かれています。
これほど大変だったのは大友興廃記の日向合戦で死んだ佐伯武士120人の名前を入力した時以来です。
興廃記の作者は佐伯氏に仕えた人物なので思い入れもひとしおだったように、本作も紹運に従って死亡した人間たちを後世に残したいと言う強い願いによるものなのでしょう。
細かく名前を記すのは、面倒さや読み難さを考えても書き記したいからなのだと思います。
つまり、本書作者は高橋家の玉砕した人間を細かく書きたいと思った人であり、立花統茂や戸次道雪よりも、多大な熱量でその生きざまを書いていると思います。
本書の後半を訳していると下剋上や、大勢力の前で旗印を変える少大名の悲哀を知りながらも『それでも侍は忠義を尽くして死ぬ姿が美しい』と主張しているように感じられました。
今まで大友家の軍記物を書くと、宗麟はキリシタンを信仰したため悪人として書かれる事が多く、検証も真偽不明の俗説が中心でした。
ところが今回は最後まで主君を裏切らず、自身を捨て石にして家を守りぬいた忠義の士 高橋紹運のお話なので、根拠不明の悪口を正すのではなく、ひたすら恰好よい人間の奮闘を書いていけるのだろうと思いました。
しかし今回は別の関係で問題が起こりました。
高橋紹運に関する書状が異常に少ないのです。
いつも使用していた大友家文書録3000通で6通。
大分に残っていた書状で4通程度しか見つからず、本書にあったように『書状は戦乱で燃えてしまった』としか思えません。
ネットの情報を見ても年月が怪しく、どこまでが真実でどこまでが創作か検証が難しかったです。
さらにいえば高橋紹運の前半生の記録は殆ど残っておらず、39歳で死亡した事もありどのような人物だったのか、実はほとんど分かっていません。
なので旧臣たちの証言や伝承を集めた本書を通す事で、彼の事績を少しでも多く知ることが出来、400年以上前に書かれて現代では埋もれた本書が、リメイクした事で再び世に知られることができれば翻訳をした身として幸いです。
■立花記について
1696年から1702年の間に書かれたと見られる立花家の軍記物
『大友宗麟が家臣に猿をけしかけた』という話を掲載した軍記物
その真贋を検証するため『だけ』に翻訳しました。
●歴代立花家当主の名を記録し、道雪の死までを書いた戦国立花家の一冊。
本作は戸次道雪の死で終わる道雪一代記と呼ぶべき内容です。養子の立花宗茂は殆ど出ません。
●立花家のマイナーな武将が度々活躍する。
『竹廻彦五郎』『吉田右京』など軍記物や史書には登場しそうにない知名度の低い道雪家臣の活躍を細かく記録した一冊です。
●頭が凍り付くほどワンパターンな文章表現はそのまま記録。
本書は『●●勢を中に取り籠めて討ち取ろう』と企て、相手が『屈強の兵なので』健闘し、油断した相手が『父は子を捨て、主は従者にはなれ』る展開が同じ言葉で何度も登場します。
「あれ?ここもう読んだかな?」と何度も思われると思いますが、原作を尊重してそのままにしました。 この本は機械か、なにかが書いたのかもしれません。
●説明不足だったり、省略しすぎな部分を補足。
九州治乱記や高橋記に書かれた記述を知っている事を前提で書かれたような説明不足な文書に補足説明を入れました。
読み難い文書を現代語訳し、読みやすくまとめた一冊。
※出典となる柳川歴史研究会様の翻訳本との比較対象が簡単になるよう、独自判断で小見出しと文書内の日付を記載し、何ページの記述かわかるようページ数も併載しました。
はじめに より
本書をご覧いただきまして、誠にありがとうございます。
この本は、立花家の由緒から始まり、戸次鑑連道雪の生い立ち、立花家継承、筑後での病死までを書いた立花家の記録です。
立花記は柳川史話を記述した岡茂政氏によると
「柳川藩3代の主 (立花)鑑虎公が安東正之進・山崎玄碩に命じて藩祖に関する史料を集録させたもの」
とあり、その理由は
「元禄9年(1696)に大阪の樋口好運が「武家高名記」を択んだのに刺激させられて」
としています。(柳川史話P510)
本書の内容は九州治乱記や高橋記、大友興廃記などを参考に記述されてますが、立花家家臣の細かい名前が多数登場しているのが特徴です。立花鑑虎は1696年に家督を譲り、隠居しているので老後の道楽として郷土史に目覚めたのかもしれません。
なお、この時代は毛利の陰徳太平記が1717年に佐賀鍋島家の北肥戦誌が1711年頃に成立しており、元禄13年1700年より甲府藩主の徳川綱豊の命を受けて諸大名337家の由来と事績を集録し、系図をつけた『藩翰譜』(はんかんふ)という家伝・系譜書が儒者の新井白石によって書かれているので、武家高名記という本は家伝書ブームに火をつけたのかもしれません。
このような時流で書かれた本書は、立花家が大名となり 主君で会った大友家が大名から没落したのを正当化するためか、大友家の悪口で溢れた作品となっています。
なかでも、宗麟が家臣をけしかけて慌てる様を楽しんでたので戸次道雪が諌めたという話は2006年に『戦国武将名言録』という本に記述されてからネットでも語られるようになりました。
ところが、この本では巻末に引用を一覧で記載するだけでどの本から取ったのかは語られておらず、色々尋ねた結果、ツイッターのladysmoker様の御教授で本書だと分かりました。
御情報有難うございます。
この内容が正しいのか?誤っているのか?他の記述はどれほど信用できるのか?
その検証の為だけに、現代語訳に踏み切りました。
なお、本書は元藩主の肝入りの本ながら活字化はされておらず、原典とした柳川古文書勉強会様の本は全て手書きの書写となっており、これが初めての活字化となるかもしれません。
本書は開業も無ければ、小段落も無く、さらには合戦のたびに同じ記述が続くので非常に読みにくく、今回の現代語訳でまともに読める本になったのではないかと思います。
10回以上登場する『●●勢を中に取り籠めて討ち取ろう』と企て、相手が『屈強の兵なので』健闘し、油断した相手が『父は子を捨て、主は従者にはなれ』る展開など、手書きの文書では同じ所を読み返してないか不安になる要素でしたが、小見出しをつけ改行をしっかりとした本書では鷹揚に楽しめる内容に出来たのではないかと思います。
読むことに苦痛を感じずお楽しみいただければ幸いです。
本書は立花家当主の命令で編纂された本として以下の特徴が見られました。
●道雪の記録ですら疑わしい。(立花に来る前は特に)
本書は戸次道雪の事績を中心に書いているものの、道雪の官位や名前の時期に疎く、江戸時代でも現地調査できるはずの道雪埋葬場所まで間違っています。
主役ですらこの有様なので大友宗麟の悪口についても大友記や九州治乱記の内容の丸写しが多く、宗麟を好意的に書いていた大友興廃記の内容を一部反映させてはいるものの、宗麟を称賛する部分は一切書いていません。
これは立花家の記録を読み返しても年代が分からず、通説をそのまま書いたり、意図的に間違った可能性が考えられます。ただ、道雪が伯耆守と名乗っていた時期が違っているのはともかく、埋葬場所の情報が間違っているのは、先祖への敬意があるのか疑問です。
●神変に関する記録は可能な限り排除。
また、神変による話も全て削除しているという特徴があります。
本書の『車返の陣』では、話の元となった浅川聞書では阿蘇神社の加護で風が起こったお陰で勝利できたと書いているのに、本書ではそのような部分は削除されています。
また、宗麟の悪口でもキリシタンに入信した事は道雪の檄文に書かれた天竺宗の名称以外、一度も登場しません。
たんに宗麟の悪口を書いて道雪を称賛するためならキリスト教は恰好の材料です。
なのに本書ではキリシタンによる寺社の迫害についてすらも一切記述していません。
これは筆者の身内に隠れキリシタンがいたり、宗教関係の話はタブーだった可能性が考えられます。
例えば、作者である安東氏の系図をみると編者の直系ではないですが佐伯惟綱の娘を母に持つ安東俊房の娘が剃髪して意安(イアン)という法名を書かれています。(柳川藩下P497)
これを音読みするとキリシタンの洗礼名のようです。豊後にも柴田リイノのという人物が礼農(礼能)という名で記録されているので、洗礼名の当て字は一般的だったのだと思われます。
また、滋賀県大津かんきょう宝箱様のHPの『帰命寺(大石曽束1丁目2-20)に伝わる『平戸焼白磁冠型香炉』の項では
『曽束と小田原の中間の谷間は「キリシタンが原」と呼ばれ、江戸時代に隠れキリシタンがいました。膳所藩主・本多俊次と妻や姫(柳川藩主・立花宗茂の養女)の3男忠顕家族のことです。香炉は、キリシタンだった母から息子と嫁へ、最後は一粒種の吉之助へ。光の加減で浮き出るクルス(十字)には、禁制時代に生きた隠れキリシタン家族の魂を感じます。』
http://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/content.asp?key=0412000000&skey=18
とあり、血縁では無いものの一族に隠れキリシタンがいたので立花家ではタブーだったのかもしれません。
●島津や龍造寺という敵は基本的に無視。秋月、宗像、麻生を主敵として描く。
本作では龍造寺隆信や筑紫が登場するものの、敵として戦った相手は秋月や宗像氏が殆どです。
彼らは筑前の領主であり、本作はその戦いを中心に書いています。
耳川合戦以外の他国の戦いは道雪が絡んでいないとまず書かれません。
逆に言えば、こうした近視眼的で限定的な記述は『立花と高橋の主敵は筑紫・秋月・宗像であり、龍造寺は両者が争っていた隙を漁夫の利的に奪った』ようにも感じられます。
●正式な立花当主である統虎はスルー。
本書では本来の意味での立花家の当主である宗茂についても殆ど記述がありません。
高橋記ですら、宗茂がなぜ養子に望まれたのか?を一文だけ書いているのに本書では全く説明していません。
これでは立花記ではなく、道雪記とした方が内容的には正しく思えます。
これは中国の列伝のように個人の記録を分けて書こうとしたのに、1702年に編纂を命じた鑑虎が死亡したため続きは立ち消えになったのかもしれません。
●部下の記述は史書に名が登場する事のない中間でも詳細に。
逆に、戦いで戦死した武士はもちろん、軍記ではほとんど名が書かれる事のない下男 中間の名は頻繁に登場します。
その内容は、享保8年(1724)の藩士系図に書かれた内容よりもさらに詳細です。
中間の名は公式文書に登場する事はまれで、家伝書なり子孫の記録が無ければ知る事すらできなかったでしょう。
そんな存在の功績を後世に残すために、既存の九州治乱記や高橋記、はては大友興廃記などの話を下敷きに、注釈を加えるように内容を追加したのが本署の特徴だと思われます。
ここから推測すると、本書は立花家の家臣で軍記物に名前が登場しなかった家臣 特に他の書では登場しなかった中間や郎従の活躍を記そうとしたのではないかと思われます。
高橋記などでは登場しなかった蒋野氏は享保8年の系図を見ると安東氏が蒋野金右衛門に系図を提出してる事から、安東氏の上司にあたり、そのために蒋野一族の記述が多いのかもしれないと推測されます。
本作は他の作品に書かれなかった小さな戦いや、子孫が語り継ぐ戦死者の供養を兼ねた内内の記録だったのかもしれません。
内容は他の軍記との重複が多く、有名人が登場しないため活字化されず、埋もれていたのはそのためかもしれません。
まあ『よほどの目的が無い限り、読む事さえ苦痛な内容なので無理も無いな』と現代語訳を終えた今でも思う程、本書は読むのが難しいのが原因かもしれませんが…
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